スイス国旗   ス イ ス の 小 部 屋 

  スイスからのNews  

  2016.8.29 ☆No.14
    2016年ワッカー賞はラインフェルデン市へ
    スイス郷土保護協会(Schweizer Heimatschutz, SHS)の今年のワッカー賞はアーラウ州の
    小都市ラインフェルデン(Rheinfelden)に決まり, 6月18日に賞状が授与されました。チューリヒから
    バーゼル行きの電車の途中にあるラインフェルデンは、ライン河を挟んでドイツに隣接する人口
    約13000人の古い町で、都市としての歴史は13世紀に遡ります。12年前に市当局は町の質の向上を
    目指して持続的な地域開発を計画、これを住民と協力して練りつつ徐々に推進してきました。
    古い建物には手を入れ、町の中心である旧市街と周辺の新開地の間は歩いても自転車でも行き
    来しやすい道で結び、新旧を上手く合体させた魅力ある町作りの成果が評価されたわけです。
    またライン河の向こう側にある同名のドイツのラインフェルデン市とは姉妹都市の仲で橋で結ばれ、
    公営バスでも徒歩でも、簡単に行き来できます。
    ワッカー賞は、ジュネーヴの実業家故アンリ=ルイ・ワッカーから受け継いだ遺産を基に、1972年から
    スイス郷土保護協会が毎年、文化と建造物の保護に寄与した市町村に与える賞で、第一回は
    シュタイン・アム・ライン(Stein am Rhein)が受賞しました。

   
 町の写真へ  1〜8

    写真説明
    1. ライン河岸沿いの遊歩道、歩行者天国
       ライン海岸沿いの遊歩道
        
[写真提供:Schweizer Heimatshutz スイス郷土保護協会]
    2. クールブルネン・イヴェント施設内のホールの一つ:1920年に建てられた湯治場(Kurbrunnen)を
       拡大修復、当時のオリジナル壁画を復元し、今はコンサートや展示の会場に
    3. クールブルネン・イヴェント会場施設の前のライン・テラス広場
    4. モダンな建物の並ぶ新開地:下はオフィス、上は住居
    5. 旧市街
       旧市街
        [写真提供:Schweizer Heimatshutz スイス郷土保護協会]
    6. ライン河畔の市営公園
    7. ライン河の中島、ブルグシュテル小島(Inseli-Burgstell):昔はもっと大きな島で、
       小さな城があったとのこと
    8. 旧市街と河向こうのドイツのラインフェルデンを結ぶラインの橋

  2015.8.17 ☆No.13
    スイスの7月は、気温35度以上の日で始まり、ジュネーヴでは39度を超えた日もありました。
    夕立で一湿りあってほっとしたのも束の間、その後も30度以上の日が続き、2003年以来の猛暑と
    なりました。家屋は暖房は完備してますが、普通の家庭では冷房装置は皆無。
    夜になっても気温は20度以上で、扇風機は売れ行きが飛び上がり、品不足になったとか。
    35度以上の猛暑の最中、わたしはベルナーオーバーランド東部のマイリンゲン(Meiringen、高度595m)で
    小休暇を過ごしました。空中ゴンドラで高度1082mのロイティ(Reuti)に登りましたが暑さは同じ。
    そこからブリュニク(Bruenig、高度1008m)までは歩いて3時間、ハイキングコースは木陰が多いので平気、
    という駅員の説明で歩き始めました。ところが、木陰は途中で無くなり、道を間違えたのか舗装路になり、
    こんな暑い中歩くのはわたし一人。1時間ほど汗だくで歩くと郵便バスの停留所が。
    ちょうどブリュニク行きのバスが来たので飛び乗ったら、15分ほどで着きました。
    翌日は、ブリエンツェル湖(Brienzersee)とトウン湖(Thunersee)で遊覧船に乗って過ごしました。
    そよ風の快適だったこと!
    帰宅して間もなく、スイスに住む友人から「この暑さで日本のカボチャがもうできたから取りに来て」
    との連絡。

    
    
 菜園のかぼちゃ

    普通は収穫は9月末なのに?半信半疑で彼女の家庭菜園に出かけました。
    そして一目見て、これは日本のカボチャではない、赤ちゃんの頭ほどの丸いズッキーニだ、
    と分かりましたが、彼女は「日本のカボチャよ」と言い張ります。翌日、料理してみたらやはり
    ズッキーニでした。どこかで種が混同したのでしょう。ところで、この彼女の家庭菜園ですが、
    これは通称「シュレーバーガルテン(Schrebergaerten)と呼ばれる「借り家庭菜園」の一画です。

    
     
シュレーバーガルテンの小道

    自分の庭は無いけれど家庭用に趣味と実益を兼ねて畑仕事をしたい人のために、主に町や村が空き地を
    家庭菜園として提供、200平米ぐらいに区画割りにして、貸してるものです。彼女が借りている場所は
    全体がかなり大きく、区画ごとに水道が引かれ、共同トイレも完備、年間の借り賃は300フラン
    (現在約38000円弱)だそうです。40年来ここで野菜作りを楽しみ、その間に小さな菜園用の
    木造小屋を設け、

    
     
Irisch Cottageの正面(小道から見た処)

    アイルランド系カナダ人の彼女にちなみ「Irisch Cottage」と名づけ、グリルも取り付けてあります。
    
    
    
 Irisch Cottageの看板

    息子さんたちはもう家庭を持ち、2年前にご主人が亡くなりましたが、「もう生活の一部」だからと、
    ここで野菜作りを続けています。
    我が家も子供たちが幼い頃、「シュレーバーガルテン」を借り、自家製のトマト、サラダと楽しみました。
    大豆も上手にでき、枝豆風に茹でてみたら家族一同「美味しい!」。でも、我々の「シュレーバーガルテン」は
    自転車で15分ほどの所にあり、途中麦畑をつっきるため、花粉症の私は目と鼻の粘膜が腫れて
    大変だったため、一シーズンで返上しました。
    7月は、暑さ続きで、山火事注意報、野外でのグリル禁止令も出、8月1日のスイス建国記念日では
    恒例の花火の打ち上げも危ぶまれました。ところが7月29日から各所で雨降りとなり、気温も下がり、
    8月1日は、指定された場所での花火大会が華々しく決行されました。この日、わたしはフランス語圏に
    住む上娘宅にいて、夜10時半ごろから始まった一帯の村の見事な花火打上げ競争を、
    窓越しに楽しみました。
    8月もしばらく暑さは続くようです。でも、湿度は50%ぐらいなので、日本の夏を思えば凌ぎやすいです。

  2015.8.12 ☆No.12
    7月初めの猛暑の最中、わたしはマイリンゲンにいましたが、主な目的はインターラーケン美術館で
    開催されていた「ピカソ展」を見に行くことでした。マイリンゲンからインターラーケンまで電車で
    1時間足らずで行けますから。その気になればチューリヒから日帰りでも行けますが、
    朝寝坊の私には無理なこと。ちょうどマイリンゲンの或る三ツ星ホテルが提供していた
    格安料金に飛びついて、3泊4日で出かけた次第です。

    インターラーケン美術館は表通りから引っ込んだ道にあるこじんまりとした建物で、
    開館時間も午後のみ、1時間もあれば見学できます。そこで、チューリヒからルッツェルン経由で
    まずインターラーケンに直行、駅のコインロッカーに荷物を預け、汗だくながら身軽で美術館に到着。

    この「ピカソ展」は、色鉛筆で有名なスイスのカランダッシュ社(Caran d’Ache)の色鉛筆とパステルを
    使って描いた、ピカソとまだ幼かった彼の子供たちの絵、またピカソが子供たちのために描いた絵を展示。
    これらの作品はピカソ家の個人蔵で、ほとんどが初公開とのこと。さらに、ピカソと親しかった
    アメリカ人の写真家、デイヴィッド・ダグラス・ダンカンが撮影した「家庭シーン」の写真も展示され、
    なんともほほえましいピカソの「家族的」な面を堪能できました。

    写真には3人の子供たち、カティ(Cathy), クロード(Claude), パロマ(Paloma)がパンツ姿で仲良く絵を
    描いたり遊んでいるシーンもあります。私の知っている限りでは、クロードとパロマは実の兄妹、
    でもカティはピカソの前の奥さんの連れ子のはず。それでも3人は仲良しだった様子が伺われます。
    ピカソは子煩悩だったのでしょう。

    この「ピカソ展」は8月30日まで開催されてます。興味ある方は下をクリックしてください:
    
インターラーケン美術館「ピカソ展」

  2015.6.25 ☆No.11
    6月12日の晩、チューリヒの音楽堂、トンハレで13回ゲザ・アンダ国際ピアノ・コンテストの最終回が
    催され、二階席の一番後ろながら売れ残りの切符を仕入れたわたしも出かけました。
    このコンテストはハンガリー生まれのピアニスト、ゲザ・アンダ(1921-1976)を偲び、彼のスイス人の
    夫人が、若い有望なピアニストを奨励するために1979年に創設した国際ピアノ・コンテストで、以来、
    3年に1回、チューリヒで開催されてます。参加者は自分のレパートリーとゲザ・アンダのレパートリー
    (モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ショパン、バルトーク、
    ドビュッシー、ラヴェルの作品)から選曲するそうです。
    今年のコンテストには20カ国から99人が応募、DVDによる選別で45人がチューリヒの予選に招待された
    そうですが、実際に参加したのは日本人女性一人も含め27人。予選は6月6日に始まり、
    途中振り落とされた中から残った3人、それも男性だけが、この晩それぞれに選んだ曲をオーケストラと
    共に競演しました。素人のわたしがいつも思うのは、こんな長い曲をよくも暗譜で弾けるものだということ。
    最終コンテストは19時に始まり、まずロシア人ピアニスト(1987生まれ)がブラームスの
    ピアノコンチェルト一番を、続いてアメリカ人(1986年生まれ)がショパンのピアノコンチェルト一番を弾き、
    小休憩。3人目のブラジル人(1986年生まれ)がラフマニノフのピアノコンチェルト二番を弾き
    終わったのは22時ごろ。審査員は7人。わたしが気に入ったのはショパンを弾いたアメリカ人、
    そして彼が優勝しました。二位はロシア人、三位はブラジル人。勝敗を決めるのは難しかったことでしょう。
    優勝者は、これからスイスの各地でコンサートを開き、10月にはわたしの住む村でも聴かせてくれます。
    ちなみに、ゲザ・アンダ夫人(1926-2014)はスイスの機械会社、オエリコン・ビュルレ(Oerlikon-Buehrle)の
    社長エミール・G・ビュルレEmil G. Buehrleの娘で、この父親の有名な絵画コレクション館がチューリヒにあり
    名画を楽しめます。

  2015.6.2 ☆No.10
    3月末から約一ヶ月、老母の様子を見るため里帰り、スイスへ戻ってからは色々と雑用に追われ、
    時はあっという間に経ってしまいました。その間、ドイツ系スーパーチェーンの旅行部門の提供する
    ホテル格安オファーを目に留め、これを利用して、カンデルシュテーク(Kandersteg)に3泊4日で出かけ、
    気分転換してきました。

    Kanderstegはベルンからブリーク行き電車で約1時間、レッチベルク(Lotschberg)トンネルの手前にある
    標高1176mの小さな村。ここから標高1593mの所にあるエシネン湖(Oeschinensee)へ行くのは長年の
    念願でした。でも、どういうわけか今まで果たせなかったのです。Kanderstegに着いたのは午後。
    2日前に降った雪がまだ残り、ホテルの受付には、雪で折れてしまったというチューリップの花が花瓶に
    飾られていました。シーズン前でお天気もあまり冴えないこともあり、村は閑散としていました。まずは
    村の様子を探ろうとぶらぶら歩いてみると、「Bundesrat Adolf Ogi-Strasse」という名の通りがありました。
    そうです、ここは元閣僚
アドルフ・オギの出身地でした。

     
エシネン湖

    湖行きは翌日。歩いて登ると2時間ぐらいとのこと。そこで、行きは空中ゴンドラで登り、そこから歩いて
    15分と言う湖へ。でも歩きたかったので、わざと遠回りして1時間かけて着きました。エメラルドの湖水、
    スイスで一番きれいな湖と思って来た湖は、晴天でなかったせいか、雪解け水が流れ込んでいるせいか、
    湖は真っ青でもなくエメラルド色でもありませんでした。湖畔の上にあるレストランの横を通って湖辺に
    降りると灰色の砂浜。そこに降りず、左に周り林の間の「彫刻の道」を行くと、木の幹を掘った面白い作品が
    そこここに展示されてます。途中で湖畔側に降りると岩石ゴロゴロの道なき道。釣り人の姿が見えたので
    魚がいるのでしょう。間もなく小さい滝下に出、濡れないようにゴロゴロ道をちょっと下回りしてさらに歩いて
    いきましたが、その先は崖下につながるようで、躊躇、泳げないわたしが足を踏み外して湖に転落するのは
    かっこ悪いと思い、引き返しました。足元に注意しながら歩いたのは1時間ぐらいでしょうか。途中、
    気に入った石をお土産に拾ってきました。帰りは歩いてKandersteg まで約1時間、快適な下り道でした。

    
エシネン湖

    
彫刻の道

    期待はずれではあったけれど、念願のOeschinensee行きを果たせ、とても嬉しいです。
    翌日は快晴。所用を兼ねて行ったインターラーケンは気温25度ぐらいになったでしょう。新雪をかぶった
    ユングフラウヨッホが青空に真っ白く映え見事でした。そしてその翌日、気温は11度、雨振る中、
    震えながら帰宅しました。ホテルの朝食で出た地元の美味しいアルプスチーズをお土産に携えて。

    *注記
      
アドルフ・オギ
      1942年生まれ、スイスの政治家。
      スポーツ国連事務総長特別顧問。2000年にはスイス大統領に。


  2015.3.9 ☆No.9
    零度前後の気温が続いていたスイスですが、3月に入ると、青空になれば、まだ5度前後でも日差しに
    春の気配を感じられるようになりました。いつの間にやら雪わりそうが白い花を咲かせ、クロッカスが
    彩りを添え、色々な小鳥も囀りながら、まだ芽吹かない木々の枝から枝へ楽しそうに飛び交いはじめました。
    外を歩き回りたい衝動にかられます。
    独り暮らしのわたしは、1昨年12月から思い切ってスイス国鉄の全国年間定期を購入、
    動き回るよう心がけています。この年間定期、普通の大人用2等車の値段はCHF3655(スイスフラン、
    現時点で約46万円)ですが、わたしのような年金者用はCHF2760(約34万8000円で、月割りにすると
    CHF230(約2万9000円)。わたしの娘たち二人はいずれもフランス語圏スイスに住んでおり、
    彼女たちの所に行くと1回の往復で最低CHF170かかるので、2回往復すれば充分元が取れるはず、
    と思っています。スイスの鉄道駅には改札口がないので、この定期があれば、それこそ好きな時に
    好きな電車に飛び乗れて、車内コントロールでこの定期を表示するだけでいいのです。
    スイス全国の市営バスとトラムにも使え、隣国フランス・ドイツ・イタリアの国境の町まで行けます。
    そのうち、レマン湖の遊覧船に乗って対岸のフランスの町に遊びに行くつもりです。物価高のスイスから
    「ショッピング・ツーリスト」として?
    
       IC-2000
       
スイス鉄道の代表車両(Wikipediaより)

    もう一言。1月末に、フランス語圏とドイツ語圏スイスの「高校生交換」プログラムの一環で、
    わたしの孫娘(上娘の長女)がチューリヒで2週間ホームステイ、その家の娘さんと一緒に高校に
    通いました。わずか2週間の間に、孫娘はスイスドイツ語を体得、その間フランス語を話すチャンスは
    なかったとのこと。間もなく、その娘さんはわたしの上娘宅に2週間滞在し、孫娘の高校でフランス語だけの
    授業を受けます。この孫娘、来る時は母親が一緒でしたが、帰りはわたしが電車で同行しました。
    そのために、わたしは「孫同伴券」を購入したので、孫娘の乗車券は無料!「おばあちゃん」
    頑張っております!「孫同伴券」は「おじいちゃん」や「おばあちゃん」が16歳未満の孫を同伴できるように
    発行してくれるカードで、孫1人につき年間CHF30(約3780円)、その孫の名前も明記されます。

  2015.2.5 ☆No.8
    2015年度ワッカー賞はブレガリアに!
    スイス郷土保護協会(Schweizer Heimatschutz, SHS)は、本年度のワッカー賞をグラウビュンデン州の
    ゲマインデ(地方自治共同体)、ブレガリアBregaglia(独名ベルゲルBergell)に授けると発表しました。
    ここはマロヤ峠(標高1815m)からイタリアのキアヴェンナ(標高333m)に下る谷の途中にある
    イタリア語地区です。
    ブレガリアは2010年に、ヴィコソプラノVicosoprano、スタンパStampa、ボンドBondo、
    カスタセーニャCastasegana、ソリオSoglioの5ゲマインデが合併してできた新しいゲマインで、
    合併をチャンスに、谷間のゲマインデ一帯のアイデンティティーを失うことなく、統一的に独自の開発を
    進めてきた努力が評価されたのです。      
    古い建物を大切に保存、必要な新式機能を取り入れて、他の用途に利用、古き良さとモダンを
    上手く合わせた景観で、観光のみならず住民の生活の質の向上にもつながったとのこと。
    ちなみに、スタンパはアウグスト・ジャコメッティとアルベルト・ジャコメッティの生まれ故郷。
    イタリア人画家のジョヴァンニ・セガンティーニもマロヤに住んでました。

      Bregaglia1
      写真1:右側の建物は、昔は学校の校舎、現在はブレガリア(ベルゲル)のゲマインデ役所
           左側の木造館は20年前に体育館や催し場として建設

        
        Bregaglia2
        
写真2: 昔は牛舎、現在は改造して住宅
       
      (写真提供:Schweizer Heimatshutzスイス郷土保護協会)

    ワッカー賞というのは、スイス郷土保護協会が1972年以来、同年に亡くなったジュネーヴの実業家
    アンリ=ルイ・ワッカーから受け継いだ遺産を基に設けた賞で、文化と建造物の保護に寄与した
    ゲマインデを対象にしてます。第一回はシュタイン・アム・ライン(Stein am Rhein)が受賞しました。

    
スイス郷土保護協会ホームページへ

    片山淳子

  2015.1.16 ☆No.7
    スイス中銀は2011年9月以来、弱いユーロと強いスイスフランの交換率は
    1ユーロ=1.20スイスフランを下回ってはならぬという下限制限を設け、この政策を維持してきました。
    ところが昨日、1月15日(木)の午前10時半に突如として、この制限が解除され、
    夕方には1ユーロは1.02スイスフランまで下落したそうです。解除の理由は、
    米ドルの回復から予想される米国の利上げと間もなく実施される欧州中銀の大幅国債
    買い上げによる資金注入のためとのこと。金融や経済の知識に乏しいわたしには良く分かりませんが、
    昨年12月のロシアのルーブル下落も絡んでいるようです。
    この突然の解除発表でスイス株式市場は混乱、優良株インデックスは一気に9%近く下落しました。
    また銀行の窓口やATMではユーロの交換率の是正が間に合わなかったり、
    ユーロが足りなくなってしまった所もあったようです。キヨスクでは普段ユーロでも買物できますが、
    この日は午後から「ユーロお断り」となったとも。
    またチャンスとばかり、ユーロを使う隣のドイツへ買物に出かける人が殺到、スイス国鉄は国境の町
    コンスタンツ行き電車を増発させたそうです。
    その前に、スイス中銀は強いスイスフランに歯止めを掛けるために、銀行への貸し出しに
    「マイナス金利」を課すと決め、間もなく実施されます。
    日本円と並んで安全通貨とされるスイスフラン、これでさらに強くなれば輸出産業には打撃となり、
    観光客も減り、失業率は上がるでしょう。
    このショックが一時的なもので終わり、中銀の独断は正しかったということになればいいのですが。

   
   片山淳子

  2014.11.5 ☆No.6
    今年のスイスは、本格的な夏は素通りした感でしたが、秋に入ってから暖かい日が続き、
    途中天気は崩れたものの、11月に入った今も清清しい秋日和を楽しめます。
    好天に誘われ、先週は片道3時間かけ、ベルン州の田舎エメンタールにある
    トリュブシャッヘンTrubschachenへ行って来ました。ここにあるカンブリ(Kambly)製菓会社
    建物内で、スイスにお住まいの画家、横井照子さんの作品の展示即売会が催されていたからです。
    ここの社長が彼女の作品の愛好者で、特製ビスケット箱は彼女の日本画風の絵柄です。
    展示作品30点のほとんどには売約済みのマークが付いてました。自然を愛する彼女は、
    売上金を全て自然愛護団体に寄付されるとのこと。ちなみに、彼女は89才、今年の作品も
    展示されてました。会場は工場の直売店内で、色々な製品の試食もできました。
    わたしも横井照子さんの隠れたファンで、日本にある彼女のこじんまりした二軒の美術館も探して
    訪れたことがあります:一つは静岡県にある横井照子富士美術館
    もう一つは岐阜県の恵那にある横井照子ひなげし美術館です。
    ―この展示会も日本・スイス正式外交開始150周年記念プログラムの一環でした。

    片山淳子


  2014.9.29 ☆No.5
   今回は、片山淳子先生から送って頂いた「ブックレビュー」です。
    横浜のフェリス女学院同窓会[白菊会]の会誌「フェリスたより」第47号(2014年7月8日発行)から
    転載させて頂きます。[白菊会]の皆様ありがとうございます。

    片山淳子

  フェリスたより
  2014.8.20 ☆No.4
    新聞の報道によると、ドイツ語圏のトゥルガウ州が、小学校でフランス語を教えるのは止め、
    必須の英語だけに絞り、フランス語は中学に入ってからにする、と決議したそうです。
    ドイツ語以外の言語を二つ教えるのは教師にとって負担が重く、習う生徒も大変だからと
    いう理由で。トゥルガウ州では現在、小学校5・6年生は週2時間フランス語の授業があるが、
    これではちゃんと習うには不十分で意味が無い、中学できちんと学んだ方が効果があるからと。
    ドイツ語圏の他の州でも、小学校からフランス語を教えるべきかどうか検討中とのことです。
    公式には四言語国のスイスでは、言語の平和を保つために、小学校で自州の言語以外に
    他の国語を一つ習うと決められてます。ドイツ語圏のチューリヒ州で育ったわたしの娘二人は
    フランス語を習いました。おかげで、今フランス語圏スイスに住む彼女たちは言語の
    問題はありません。
    ドイツ語圏側が小学校でフランス語授業を廃止したいのは、フランス語圏の人間が学校で
    ドイツ語を義務で習っても話す気がないからです。ご存知のように、ドイツ語圏スイスでは
    話し言葉は方言のスイスドイツ語で、学校で習うドイツのドイツ語とは違います。
    でもドイツのドイツ語は通じます。実際にかなりのドイツ人が、スイスに住み、働いており、
    ドイツのドイツ語は頻繁に耳に入ります。でも、スイス人は、ドイツ語圏の人はスイス・ドイツ語に
    こだわり、フランス語圏の人もスイス・ドイツ語がスイス人のドイツ語と思っているのです。
    言葉の上のレシュティグラーベン(Roestigraben)が深まりそうです。
    違う言語圏のスイス人の共通語は英語、という時代は程遠くないかもしれません。


   片山淳子

  2014.7.9 ☆No.3
    日本・スイス正式外交開始150周年を記念して、スイス各地で色々な行事が開催中です。
    
    [サンクトガレン]
    チューリヒから東へ電車で約1時間のサンクトガレンでも、日本・スイス展が三会場で
    催されています。
    この町は15世紀に織物産業が起こり、特産の麻織物は折り紙つきの品質を誇り、
    スイスの主要輸出製品となりましたが、18世紀にはより需要の高まった木綿織物に
    鞍替えしました。19世紀には産業革命の波に乗り、刺繍織物機械を開発、その素晴らしい
    刺繍・レース製品は市場を世界中に広げました。ところが20世紀には二度の世界大戦と
    その間の世界恐慌で市場は縮小、さらにファッション傾向の大幅な変化も加担して、
    高級刺繍製品は需要が激減、往時の業界の面影は消えています。
    それでもサンクトガレンの素晴らしい刺繍・レース生地は、パリのオートクチュールでは
    欠かせない素材だそうです。
    150年前に日本が開国した当時、サンクトガレンはいち早く日本の市場に注目、両国間の
    正式外交が始まると共に、織物を通じて日本との交易を深めました。
    ですから日本とは縁があります。
    
    (1)展示会場の一つ、テキスタイル(織物)博物館では、交易開始当時に輸入され、スイスの
       上流界で珍重された“異国”日本および中国の豪華な手刺繍製品にお目にかかれます。
       日本の着物地の模様と“染め型”も陳列され、スイスの織物界がこういった東洋の
       意匠からインスピレーションを受けたことが伺われます。かつての日本の“洋装”、
       そして現代の東京の原宿の“若者ファッション”も写真で紹介されています。
       →サンクトガレンのテキスタイル博物館(独・仏語)

    (2)歴史・民族学博物館では、所蔵の日本の伝統工芸品、能面、能装束、広重や北斎の
       浮世絵が展示されています。
       →サンクトガレン歴史・民俗学博物館 @(独語)
       →サンクトガレン歴史・民俗学博物館 A(独語)

    (3)もう一つの会場、旧倉庫(Lagerhausラーガーハウス)を改造した建物内にある
       美術館では、「Art Brutアール・ブリュト」展を催しています。この展示会は東京の
       社会福祉法人「愛正会」など日本の関係者の協力によるとのこと。日本人の作品を主に、
       ところどころ、まったく関係ないスイス人の作品を脇に並べて展示し、テーマなり構造的な
       類似を比較できるようにしています。
       →サンクトガレンのラーガーハウス美術館(英語・独語)

     [ヌシャテル]
     チューリヒから西へ電車で約2時間のところにある仏語圏のヌシャテル(独名ノイエンブルク)
     では、当地出身でその昔、幕府との通商条約交渉団の団長として日本に行った
     Aime Humbertの持ち帰った数多くの資料の展示会が6月19日から来年4月9日まで
     催され、初日は日本の皇太子も招待されたとのことです。
     →ヌシャテル民族誌学博物館(仏語)

     スイスに住む一介の日本人であるわたしは、この記念行事に積極的に協力する日本人の
     方々に敬意を表します。

     片山淳子

  2014.3.19 ☆No.2
    “フレネリの庭”
    スイスはいま春たけなわ、チューリヒの気温は日中16度前後に上昇、東京・横浜より
    暖かいかもしれません。どこの庭にも桜草、クロッカスが咲き乱れ、水仙も黄色の花を
    咲き競いはじめました。

    空が澄んでいると、わたしの住むチューリヒ南方の郊外から、アルプスの東端にあたる
    遠くのグラルスの山並みがぐっと近く感じられ、ちょっと歩けばたどり着けるような錯覚に
    襲われます。

    このグラルスのアルプスの一画グレルニッシュ山(Glaernisch)のすぐ東の標高2904mの
    地点に“フレネリの庭(Vrenelisgaertli)”と呼ばれる雪原があり、快晴の日には
    その白い部分がチューリヒからも眺められます。

    地元グラルスの伝説によると、“その昔、フレニ(Vreni)というがっしりした体格のやんちゃ娘が
    いました。この娘はグレルニッシュ山の頂上近くに庭を作ると言い張りました。そんなことしたら
    神様の罰が当たる、と村人たちは諌めたのですが、彼女は言うことを聞かず、
    雪が降り出しても濡れないようにと銅製の大鍋を頭にかざして出かけました。
    ところが上に達するや大雪に見舞われ、大鍋は濡れ雪で重くなり、脱ぐこともかなわず、
    娘は重みで地面に押しつぶされ、雪に覆われてしまいました。”

    フレネリ(Vreneli)というのは女性の名前Verenaのスイス式名称フレニ(Vreni)の愛称です。
    日本でよく知られるスイス民謡”おおヴレネリ”は”おおVreneli”、つまり”おおフレネリ”です。
    ただし、日本のこの歌、どういうわけか、スイスの原曲のメロディーとは異なります。

    またスイスの古い金貨もフレネリの愛称で呼ばれます。金貨の画像はヘルヴェティア女神
    なのですが、母親というよりも愛らしい乙女”フレネリ”に見えるからでしょう。

    フレニという名前の女性は私の周りにも何人かいますが、皆さんもう若くはないです。
    この名前、今は廃れて、生まれた娘にこの名前を付ける人は、都会ではまず稀でしょう。

    片山淳子

  2014.1.22 ☆No.1
   
今年2014年は日本・スイス国交樹立150周年に当たります。
    両国は1864年2月6日に修好条約に調印、スイスは日本にとり8番目の外国通商パートナー
    となり、日本へはスイス製の時計がもたらされ、スイスへは主に日本の絹が輸出されるように
    なりました。
    詳しくは下記のウェブサイトをご覧ください:

    在日スイス大使館の日本語版ホームページ ⇒ ここをクリック
    在スイス日本大使館のホームページ ⇒ ここをクリック

    スイスと日本で色々な記念行事も計画されています。これを機会に日本人とスイス人が
    お互いに相手の国をもっと知り、友好と理解がさらに深まりますよう。

    刀水書房からはスイスの歴史関係の本が何冊も出版されてますので、読みやすい作品を
    手にとってみてはいかがでしょうか。また元スイス駐在日本大使の國松孝次氏も、
    在任中の経験から『スイス探訪』という本を書かれました。単なるスイスの紹介ではなく
    着眼の鋭さを感じさせられる好著です。歴史学者ではないわたしの訳本
    『もう一つのスイス史』を読んでいただき、スイスが多言語国になった経緯やそのために
    生じた言語圏間の軋轢、それでもまだなお健在するスイスの背景が分かっていただければ
    幸いです。
    次回のスイス旅行はもっと楽しくなることでしょう。

    片山淳子


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